久保田家晃進株式会社は、東京の中でも最も江戸時代以来の伝統文化が息づく台東区の浅草にあります。 この場所は、仏導会式墓相学の開祖、久保田雅山師が京都の徳風会の初代竹谷聰進師から独立して、昭和二十年代に未だ墓相学があまり知られていなかった関東地方以北に墓相学の普及と吉相墓の指導を広げようと、身ひとつで上京した時に縁を得た土地です。 ここを本拠地として、久保田家晃進株式会社は、主として墓相学に基づく吉相墓の建立、そのためのあらゆるご指導、ご相談、コンサルティングを行っています。また、建墓工事、墓地改葬工事に際しては全国どこでも当社の施工従業員が伺い、正しい工法で工事に責任を持ちます。
吉相墓(墓相学に基づくお墓)を建てるということは、ご家庭のご先祖や先に亡くなられたご家族を、正しく、丁重にご供養してさしあげるということです。
このことによって、これらの方々の霊は安らかに眠ることができます。
その方法をお教えするのが「墓相学」です。
正しく、丁重に供養されていない霊は、この世に未練を残して成仏ができませんから、その存在を知らせようと、生きている家族の誰かを呼ぼうとします。
ここに因縁が発生します。この因縁によって家族の誰かが重い病気にかかったり、亡くなることになります。
家系には、こうしてさまざまな因縁が重なり合い、絡み合っていきます。たとえば、二、三代前に両親より先に亡くなった子供がいると、また新たに亡くなる子供が出たりします。このような例は、明らかに一つの因縁の表れです。
家系に絡まったさまざまな因縁は、正しい供養によってほぐしていかなければなりません。

この場合の正しい供養とは、適切な大きさの地蔵尊墓に、適切な戒名(法名、霊名)を適切に刻むことです。大人で亡くなった方の格の異なる戒名(法名、霊名)などと同列に刻むべきものではありません。
ところが、現在、世間で一般に建てられているお墓では、「墓誌」とか「法名碑」などといわれる石に、大人の戒名も子供の戒名も序列に関係なく、ただ亡くなった順に並べられていることが普通です。このような祀り方をすると、子供が大人と同格ということになり、子供が親より先に亡くなるという因縁を生み出してしまいます。
一般のお墓と対照的に、吉相墓の特徴を端的に言えば、お墓を構成する諸要素すべてに意味と原則があるということです。そして、それらにはそれなりの力があります。言い換えれば、吉相墓では、意味のない石や余計な付属品などは、墓地の中に置かないということです。意味のない余計なものには、逆に悪い力=害があります。

一例をあげましょう。
一般の墓地を見ると、本来必要のないものや使用しないものがあります。灯篭(とうろう)などはその典型といえます。灯篭は本来、灯をともしてはじめて意味のあるものですが、いわゆる墓前灯篭に灯がともされているのを、ほとんど目にしません。明かりの供養をしない背の高い墓前灯篭をお墓に設置しておくと、必ずやその家では家人が異性問題を起こすものです。これは、墓相学の統計が教えるところです。
明かりの供養というのは本来大切なことなので、吉相墓では地上三十センチほどの小さなローソク立てを置きます。明かりがなければ世の中は闇です。同様に、知恵がなければ世の中が見えません。ですから、ローソク立てという道具は智慧の仏様、文殊菩薩を意味しています。ついでに述べれば、花立てという道具は慈悲の仏様、普賢菩薩を意味します。道具というのは、使わなければ意味がありません。
一般のお墓と異なり、吉相墓では、墓地の中に木を植えたりしません。木は成長するに従って、お墓のあらゆる力を奪ってしまい、大いに害のあるものとなります。生い茂った樹木におおわれた墓地は、人の訪れないさびしい家庭を招きます。
樹木どころでなく、周囲を鉄の柵や鎖で囲ってしまう墓地がありますが、このような家庭は、他人にうかがい知れない悩み事や秘密をかかえたり、財産問題その他で裁判沙汰を繰り返すことになります。
もっとも、近年新しく建てられたお墓で以上のような例は少なくなっているかも知れません。なぜならば、はじめからカロート(納骨堂)や基礎を生コンクリートでガチガチに固めて、規格品の石塔しか建てさせない墓地や、樹木の高さ制限をする霊園などが増えているからです。現在主流のように作られている、こういう形式のお墓は、言わばカロートの団地のようなものです。カロートの使用が前提で、カロートの空洞の上に石塔が載せられています。納骨の際には、狭い石のふたを開けて骨つぼを中に並べるだけです。とても本来の納骨や埋葬とは言えません。
私どもが墓相学でいう納骨とは、お骨をじかに土に還すことです。具体的には土に穴を掘り、骨つぼから出したお骨を「さらし」の布につつみ、土に埋めます。こうすると、年月とともにお骨は土に還ってゆきます。
当然ですが、人間も自然界の一部に過ぎません。少し以前の世代まで、ほとんど日本人は土葬されていました。火葬が一般化したのはごく最近のことです。手間がかからないからといって、お骨をつぼに閉じ込めて保存して何になるでしょうか。
骨つぼは貯まる一方です。標準的なカロートは数個の骨つぼで満杯になります。すでにそのような状態になっている墓地は各地にあるでしょう。お骨の処理を迫られたお寺や石材店が頼るのは産業廃棄物業者でしょう。その処分がどうなされるか、あとは推して知るべしでしょう。
カロートの団地のような風景を見て、自分はそんなところに閉じ込められるのはイヤだ、自分は死んだら自然に還りたい、と考える人が増えても当然です。いわゆる「自然葬」、「散骨」は、カロートのお墓に対する拒否反応ではないでしょうか。
印象として述べると、自然葬、散骨を望む人は自分の子供の世代と隔絶していて、しかし、自分たちは仲のよい夫婦に多いようにみえます。自分ないし配偶者が生前好んだ自然の中に永眠したいと考える心情は、日本人の心の奥底に流れる自然観に通じるものとして、私ども墓相学の立場でも半分だけ理解できます。
しかし、自然葬、散骨をする人の意識の中にあるのは、まず、自分たちの好みに対するこだわりだけのように思われます。そこに親や子供との関係という視点はありません。死ねば散骨して終わり、あとは何も残らない、というのは肉体、あるいは物質としての人間の側面だけをとらえた考え方です。
しかしながら、人間には精神性や他との関係性という、もう一方の大事な側面があるのです。自然葬、散骨で事足れりとする人の意識の中では、すでに、親(先祖)――自分――子供(子孫)という家系のつながりは途切れています。このような考え方の果てには、家族も民族も希薄なものになってゆきます。
墓相学の考え方では、お墓は自分の好みや自分の顕彰のために建てるのではありません。基本的に子供が親のために建てる、遺された者が先に逝った者のために建てる、そして、親や先祖を正しく祀ることによって子や子孫の繁栄のいしずえとなることを願う、ということです。そこには家系のつながりという関係性が意識されます。その関係性は建墓という形で表わし、残していかなければなりません。
親(先祖)――自分――子(子孫)のつながりの意識は進歩をもたらします。それは、先代から受けたものを自分の代で守り、ふやし、後代につなぐという具体的、経済的な意識を生むからです。これはあたかも、原料を仕入れ、加工して付加価値をつけて売る、という物の生産工程に似ています。
いわば、先祖供養は人としての仕事であり、務めです。
